沖縄の不思議の世界を紹介します


by nami-5963

親子戦跡巡り

64回目の終戦記念日の8月15日、浦添市の「親子戦跡巡り」に参加しました。

参加資格は親子でということでしたが、「定員に空きができた場合に、引っ越して来て間がなく、詳しいことが知りたいので、一人でも参加させてほしい!」と無理をお願いしました。

小学生の親子連れ、中学生、スタッフを含めて20余名の参加でした。

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市役所での出発式の中で、昭和61年に「平和都市宣言」をし、平成8年に「核兵器廃絶宣言」を行い、その時から次世代を担う中学生が「戦争」を知り、平和を希求する心を育てる「中学生平和交流事業」を長崎市といっしょに取り組んできたとの紹介がありました。さらに、市の平和事業として、平和を希求する心を育てるための持続的な親子向け平和学習の一環として「浦添市親子戦跡巡り」を実施してきた、との説明がありました。

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市役所の一階には、長崎市の中学生との交流で学習したことをまとめた壁新聞の展示、

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千羽鶴の展示、沖縄戦の写真展、広島・長崎の原爆写真展のコーナーが設けられていました。

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浦添市の平和事業・平和教育のようすがよくわかるいい機会でした。

バスに乗って最初に向かったのは、チヂフチャーガマでした。

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ここは沖縄戦の中で多い時は400名の日本兵・住民が身を隠していたガマ(自然壕)で、最後には、毒ガス攻撃を受け、12名だけが生存できたそうです。

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ガマの中に入ることができましたが、蒸し暑く、明かりもない暗くて狭い洞窟の中で、砲弾が飛び交う激戦をどんな気持ちで耐え忍んでいたのかと思うと、心が痛みました。

次は、すぐ近くの嘉数(かかず)の高台へ行きました。

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ここは米軍が4月1日に北谷や読谷方面に上陸してからの沖縄戦での最初の激戦地になったところです。

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目の前のきれいな海が、米軍上陸時は軍艦・輸送船1400艇で埋め尽くされ、海面が見えないくらいだった!ということが信じられませんでした。

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迎え撃つ沖縄の日本兵は16万人、上陸した米兵は18万人、軍艦・輸送船などにいて上陸しなかった米兵が35万人もいたというのですから、戦力は比べものにならないものでした。そんな戦争をなぜしたのか?がいつまでも疑問として残りました。また、上陸を阻止する水際作戦を取らず、本土決戦の準備や終戦時の国体護持の準備の時間稼ぎの持久戦を取ったことにも大きな疑問を感じました。

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ここには、現在もトーチカ、

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壕が残っていますし、

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その周りの石灰岩には、砲弾の跡が穴になって残っていて、「鉄の暴風」と言われた米軍の攻撃のすざましさを知ることができ、驚くばかりでした。

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この嘉数の高台周辺の激戦は、4/8~4/24まで続き、おもに京都出身者、

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島根県出身者、

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朝鮮人軍夫が多く戦死したためそれぞれの慰霊碑がたてられ、現在も花がたむけられていました。

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そして、目の前には2500m(羽田空港なみ!)の滑走路を持つ広大な普天間飛行場が広がり、

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見学の間にも大きな輸送機が真上を何度も通過して行きました。

米軍の上陸地点の読谷にある嘉手納飛行場は4000mの滑走路を持ち、成田や関空なみ!ということも知り、ビックリさせられました。ベトナム戦争時は、ここからB52爆撃戦闘機が直接ベトナム攻撃に飛び立っていたというからさらに驚かされました。

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最後に訪れたのは、嘉数の高台の南に東西に方向広がる前田高地と呼ばれる丘陵地帯です。

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ここは浦添城跡を中心としており、たくさんのガマ(自然壕)や人工壕が残っていて、そのいくつかを見ることができました。

ここを突破されるとすぐ南が軍本部のある首里城のため、日本軍としてはこの地を死守しなければならず、ここでは4/25~5/10までの沖縄戦最大の激戦があったそうです。

この一帯では住民を巻き込み、「ありったけの地獄を揃えた戦い!」と言われたくらいの激戦があり、6000人余りの戦死者を出し、日本軍の6~7割を失い、軍としての組織的な戦いの最後の場になったそうです。

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大きなディーク(デイゴのこと)ガマが残っていて、浦和(浦添の平和を願う!)の塔も建てられていました。

多くの住民は軍といっしょにいれば自分たちを守ってくれると思っていましたが、軍は独自の指令で動き住民を守らないばかりか、食料などを取り上げ壕から追い出したりしたことから、住民の犠牲が多くなったと言われています。
また、沖縄軍司令長官・牛島中将は、自決する時に、「最後の一人になるまで戦え!」と命じたことも犠牲者を多くしたと言われています。
さらに、捕虜の辱めを受けてはならないとか、捕虜になると殺され犯される!という間違った教育のために犠牲者を多くしたとも言われています。

改めて、平和の尊さと沖縄の「命(ぬち)どぅ宝!」(命は宝であり、もっとも尊いものである!)の言葉をかみしめた親子戦跡巡りの一日でした。
by nami-5963 | 2009-08-16 00:07 | 歴史・史跡・世界遺産 | Comments(0)